Cオジ(クレイジーオジサン)よっしーです。
今回は「みやぎリアルなぞときトレジャーハンティング」と題して、宮城県北にある謎をみつけ、その謎を解いて、その地域のお宝をゲットしていきたいと思います。
その第1弾は
登米市東和町にある【十字架の謎】
今から20年ほど前、私は東和町の山奥で下の絵のような景色を見た。

それを確認するために、再び東和町へ行ってみたのだが…当時見た景色はなかった。
がしかし…!

十字架を発見した。
調べてみたところ、なんとここ東和町は隠れキリシタン殉教の地だったのだそう。
今回行ってきたのは東和町にある三経塚キリシタン遺跡。

この説明書きには「隠れキリシタンを処刑し、埋めたところ」とある。
下は切捨場(処刑した場所)

これは小学校で学習した「キリスト教禁止令」によるキリシタン弾圧だ。
皆さんも知っているであろう、かの有名な長崎の天草四郎時貞を中心とした「島原・天草の一揆」だが、もちろん仙台藩にもあった。

「仙台キリシタン殉教碑」 9名のキリシタンが極寒の広瀬川で殉教したことを顕彰したものである。ただ、実際には10名以上いたであろう。ということだった。

しかし、この三経塚では「120名のキリシタンが処刑された」とある。

仙台キリシタン殉教は有名だが、東和町の方が殉教者数が圧倒的に多いぞ。さらに岩手県の大籠での処刑とも書いてある。よし、岩手県一関市藤沢町大籠へ行ってみよう!

大籠(もとは仙台藩)へ行ってみると、隠れキリシタンの刑場が多数あった。↑地蔵の辻(2年間でなんと178名が処刑された)

↑首実検石(役人が地蔵の辻の処刑の様子をこの石に座って監視したとのこと)

↑上野刑場(94名が処刑された)…ここにも十字架

刑場は大籠近辺で10ヶ所、309名のキリシタンが処刑された。刑場を巡るのは正直気持ちが滅入った。しかしこんな山奥になぜキリシタンなんだ?東和町と隠れキリシタンを結びつけるものとは何か?
なぜ東和町(仙台藩北部)に隠れキリシタン?
戦国時代から江戸時代にかけて、仙台藩北部では砂鉄が採れ、藩が製鉄に力を入ていたので、
↓どう屋(製鉄所)跡が多数残っている。

どう屋の近くには、↓どう屋で働く人夫の屋敷(人夫部屋屋敷)があり

人夫部屋屋敷の近くに布教の場がある。大善神とはキリストのことであり、人々は流行神と言って信仰を受けていたようだ。

↑そこで布教活動が行われていた。かなり山奥だった。

たたら(足動式のふいご:もののけ姫のたたら場を想起してもらうといいと思う)製鉄の技術向上のために、岡山から呼んだ千松大八郎・小八郎兄弟という技術者がキリシタンで、たたらを使って火力を強くする呪文と称して布教を行ったそうだ。製鉄に関係した人間はキリシタンになっていったのだろう。下の図が出来上がる。
- 東和町
- 砂鉄
- 製鉄
- 製鉄の技術者がキリシタン
- キリシタン

ところで、弾圧が厳しかった「長崎では隠れキリシタンが現在にも存在する」というニュースを見たことがあるが、宮城はどうなんだろう?
隠れキリシタンの子孫はキリスト教に戻ったか?
隠れキリシタンの子孫は、心のどこかにキリスト教への信仰心があり、弾圧がなくなれば再びキリシタンに戻る人がいるのではないか…。と私は考えた。みなさんはどう考えますか?
- A 大体の人は戻る
- B 半分ぐらいの人は戻る
- C 少しは戻る
- D ほぼ戻らない
そこでお二人に話を聞いてみた。
登米市教育委員会 教育部文化財文化振興課 文化財文化振興係兼歴史博物館主査の 二階堂さん


隠れキリシタンのご子息はキリスト教に戻ったりしているんですか?

それはないのではないかと思います。身内からキリシタンが出た場合、類族とされて6世代まで幕府の監視を受けます。さらに密告制度もあったので、キリシタンを続けるのは難しいと思います。

↑これは東和町米川が殉教の地であることを知り、小林有方氏が建てた米川カトリック教会。今でも2週に1度ミサを行っている。この教会の鈴木さんにも話を聞いた。


隠れキリシタンのご子息はキリスト教に戻ったりしているんですか?

それはないと思います。ここに置いてあるキリシタンの遺物を見ると、隠れて信仰していた時期もあったと思いますが、6世代まで監視されては無理でしょう。


始めの頃は、仏像の後頭部に十字架(左)を付けたり、仏像の台座に十字架(真ん中)をつけたりしてきっちり隠さずに、信仰していたようです。


しかし、弾圧されるようになると、位牌の台の裏に十字架を書き、普段は見えないようにして、お祈りの時には、位牌の上にセットして使う。このように見てすぐ分かるようにはしなくなりました。


それにちゃんと改宗の名簿もあった(表紙は新しいが、中身は江戸時代のもの)ので、ここまで徹底されると無理ではないでしょうか?不審に思われ、密告された人もいたそうですから
となると、隠れキリシタンのご子息はほぼキリスト教に戻らなかった。ということになりますね。

最後に、鈴木さんは十字架の山を見たことがありますか。

見たことはないです…でも存在しないともいえません。東和町近辺のキリシタンに関わる他の地域にあってもおかしくないので…。
取材を終えて
今回東和町に十字架が?!という疑問からここまで物語が大きくなるとは思っていなかった。
宮城の県北にはこのように、ふと疑問に感じたことでも歴史や意味があるのだ。
これからもたくさんの謎を解いていきたいと思う。
※この記事は、できる限り資料(仙台市博物館の学芸員さんにお聞きしたり、東北歴史博物館所蔵の図録から抜粋したりもさせていただきました)に基づき書いていますが、歴史は諸説あり、考え方も諸説あり、ここに記述してあることだけがすべてではありません。ご理解ください。